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道ごころ 平成14年7月号掲載
赤木忠春高弟の祈り・・神楽岡・宗忠神社ご鎮座百四十年記念祝祭にて・・
この上ない好天に恵まれてのきょうの御祭り。ご同慶至極に存じます。皆様、まことにおめでとうございます。私、昨日、百四十年前のご鎮座に、まさに赤誠を捧げられた赤木忠春高弟をまつる岡山の作州(さくしゅう)中籾(なかもみ)の「忠春神社」にお参りし、きょうの御祭りを奉告いたしますとともに、高弟のご労苦に対して改めて御礼を申し上げてまいりました。この忠春神社にお参りする度に思いを新たにすることですが、天照大御神様は一切万物を生かし育(はぐく)まれますが、それは決して生易(なまやさ)しいものではなくて、時には実に厳しいものであることを思うのです。昔から獅子はその子を千仞(せんじん)の谷に落とすというがごとく、赤木高弟を高弟たらしめ神楽岡・宗忠神社建立を果たさせるためには、天は実に厳しい時を高弟に与えられたと思います。それはまず若くしての失明にもがき苦しむ八年間の歳月です。叔父の西村斉助氏にひきずられるようにして連れて来られたのが、今の霊地大元の、教祖神の御宅でした。温かくも強いお説教に、いかなる御方かと面(おも)を上げたところに、教祖神のご温顔を拝することができたのです。八年間の盲目開眼の奇跡でした。その感激が報恩感謝の心を生み、赤木高弟の御道におけるすべての出発点、大元となりました。教祖神ご昇天後、直ちに上洛した赤木高弟は、維新前夜の混迷の京都にあって、かつてご自分がそうであった病の渕(ふち)に沈む人を求めて「祈り、説き、取り次ぐ」という道の誠を貫き次々と京の人々を救っていかれました。
 およそ人にとって何がつらいか、苦しいかと問うとき、わが子が命限りとなるような病の床にあるほどつらいことはないと思います。それは今も昔も変わりません。赤木高弟が布教に専心されていた頃の関白九條(くじょう)尚忠(ひさただ)公の令嬢夙(あさ)子(こ)姫は、重い病の床に伏しておられました。巷(ちまた)の噂を耳にした九條公は赤木高弟をお屋敷に招かれました。と言ってもそれは裏口からのお招きであったろうと思います。高弟は、御自らが開眼のおかげを受けられたその時そのままの感動の時を夙子姫に迎えていただくべく、懸命に祈り説き取り次がれました。その夜遅く、高弟の借り住まいしていらした所へ黒塗りのお駕籠(かご)が着きました。九條家からの正式のご案内でした。お屋敷の正門の扉が開かれ、式台には身を正した夙子姫が両手をついてお迎えになっていました。姫は高弟の一度のお取り次ぎで本復なされていたのでした。九條公が筆をとられた大幅の「宗忠大明神」の御神号は、九條家の“下(さが)り藤”の家紋をちりばめた立派な表装がなされていて、今も宝物館にあって本教のまさに宝物となっています。
 後の関白で、江戸時代最後の関白となられた二條(にじょう)斉(なり)敬(ゆき)公の場合も同じでした。令息の病が、高弟のお取り次ぎでおかげをいただかれたのが動機となった入信でした。二條公直筆の教祖神御神詠「限りなき天照る神と我が心へだてなければ生き通しなり」(御文二四三号御歌)は、この神楽岡・宗忠神社の社宝として今日に至っています。
 維新前夜の江戸最末期、孝明天皇の側近中の側近であるこのような重役の方々が次々と入信され、しかも、ご鎮座なったばかりのこの神社において国事に関する御祈念だけでも五十数回に及び、ついには孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所にまでなった宗忠神社なのです。
 九條公、二條公の入信の動機はそれぞれお子様が大病のおかげをいただかれたという全く個人的なものであったわけですが、その信仰が国事に関わる公(おおやけ)のことにまで発展していったのは、いつに教祖神の明らかにされた「天照大御神の大道」に目を開かれたゆえであろうと拝察いたします。
 時は徳川幕府三百年が音をたてて崩れつつある秋(とき)、片や勤皇(きんのう)片や佐幕(さばく)、その上、国の周辺には、アジアの国々を食べつくしたように平らげ残る日本というご馳走に誰が先に箸(はし)をつけるかと、西洋の列強がひしめいていた時代です。これら外国を討つべしとする攘(じょう)夷(い)派、徳川三百年の鎖国を解いて国際社会に打って出るべしとする開国派等、複雑に入り乱れ混迷の度は限りなく深まっていた時代です。
 この時、この国には勤皇も佐幕もない、日本はひとつなのだ、と声を大にして訴え祈るとともに、諸外国の侵犯なきように祈り続けられた赤木高弟でした。
 今年、神道山にお参りになって拝観された方も次々とおありと思いますが、五月末まで宝物館に赤木高弟直筆の数々を展示していました。先月、私は改めてゆっくりとその一つひとつに対峙(たいじ)するように拝見していました時、(写真の軸物を指差しながら)この軸物の前で判然としたことがありました。この三つの○は、上は皇室で他の二つは勤皇派と佐幕派、それを筆力に満ちた線で結んで、日本国は一体なのだと訴えていらっしゃると拝しました。しかも続いて流麗な書で、御神詠
 我が我れと思う我が身は天の我れ我がものとては一物(いちもつ)もなし(御文二四九号御歌)
が記(しる)されているのです。
 私は、ここに九條公や二條公方が皇室を中心に公武合体、すなわち勤皇派と佐幕派を一体化して明治維新の大業を成し就げた、その精神的支柱に教祖神の御教えがあったことを確信するものです。
 しかも、赤木高弟のこの軸物が訴えるところは、決して昔のことではありません。あまりにも身勝手な、自己中心的な生き方が蔓延(まんえん)している今日、私たち一人ひとりの家庭内はもとより、それぞれの社会において、人間として心がけるべきところを強く教えられていると思うものです。