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道ごころ 平成19年3月号掲載
寄稿二題
 昨年12月17日に東京大教会所(副教主様が所長をおつとめ)において東京開教130年・大教会所ご遷座70年記念祝祭が盛大に斎行されましたが、教主様には記念誌「続あずまのひもろぎ」に東京大教会所にかかわる思い出を執筆されました。
 また、黒住教宝物館において昨秋から1月28日まで「萩焼十二代 三輪休雪茶道具一式展」が行われましたが、時を同じくして天満屋美術画廊(米子・福山・広島・岡山・高松店)を会場に「十二代 三輪休雪展ー休雪への道ー」が開催され、その作品カタログに教主様が三輪氏への推薦文を寄せられました。(編集部)


東京大教会所と私

 私が東京の教会所を強く意識したのは、高校生の頃だったと思います。年頃もさることながら自意識過剰気味の私を、それとなく諫(いさ)めようとされたのだと今にして思いますが、父の先代教主五代様が、ご自身の学生時代のことをしみじみと話して下さったのです。五代様が國學院大学に入学して間もない頃、当時の東京の教会所に下宿してお世話になっていらしたのですが、その頃、毎朝お日の出前に欠かさず参って来て、廊下の拭(ふ)き掃除をして帰る娘さんがいました。彼女は、いつも次のような文句に節をつけて歌いながら拭いていたそうです。

おれがおれがのがの字を捨てて おかげおかげのかの字で暮らそう

「がの字とかの字。点二つあるかないかの違いだが大違い。かの字の心になったら人間も一人前」と諭して下さったのでした。

 学校を終えて白衣の生活に入って間もない頃、東京大教会所の初代所長岡田敏子(ときこ)先生のご長男で、戦前の中国とも縁の深かった故岡田有民命(みこと)の式年祭が執り行われることになり、私に斎主をということで、五代様も上京してお参りになるみ祭りとなりました。教会所での年祭も終わり直会(なおらい)となったとき、その頃すでに光を失い車椅子の御身ながら、増上寺の貫主椎尾弁匡師が岡田命の友人のゆえをもって参列されていて、師から佐藤尚武という痩身(そうしん)の老紳士を紹介していただきました。この時、伊勢神宮の奉賛会長であったこの方は、戦前はロシア大使であり、さらにはお若い頃に少年兵として日露戦争の日本海海戦に臨み、戦艦三笠の艦上にあって全軍を指揮した東郷平八郎司令長官(後の元帥(げんすい))の側に控えていらしたことを椎尾師から教えられ、私は、この時とばかりに佐藤氏にお話し申し上げました。
 それは、本教に伝えられている話として、日本海海戦に際し東郷司令長官は、御母君が岡田敏子先生から御道信仰の指導を受けられていたことから本教を知り、武運長久のご祈念を受けられたこと、さらに戦艦三笠の上で

教祖神の御神詠
 身も我も心も捨てて天地(あめつち)の
            たったひとつの誠ばかりに

を朗々と吟じ続けられたということが伝えられていると申し上げました。そして、御神詠を吟じ続けられたということは本当なのかどうかを、佐藤氏にお尋ねしました。
「なにしろ戦のさ中、しかも子供の私でしたから元帥の吟じられるお言葉までは分かりませんが、たしかに朗々としたお声で何かを吟じられていたことは耳に残っています」とのお答えをいただいたのでした。

 私自身の東京大教会所においてつとめさせていただいたみ祭りや講話は枚挙にいとまがありませんが、特に忘れがたいのは斎主をつとめた2人の大先輩の葬祭式です。
 学生時代ハンドボールに打ちこんでいた私が、慶應義塾大学との定期戦でご縁のできた日本ハンドボール界の重鎮西敏郎氏の葬儀、また“四十の手習い”で始めた空手道の師範で、これまた慶應の空手道部の創立者小幡功氏の葬儀を、いずれもご本人の遺志でもっておつとめできたことは、思い出しても胸熱くなるみ祭りとして今に新しいのです。
 あまりに個人的な思い出話に終始しましたが、これをもって祝辞といたします。
 末筆ながら、皆様のいよいよのご開運をお祈り申し上げます。


天駆ける人

 萩焼の連綿たる三輪家の跡を継ぐべく生まれ育った人、三輪龍作という陶芸家の存在を知ったのは、今から30数年前になります。それは、白萩の“ハイヒール”に出会った日です。この作品の前に立ったとき、常に茶陶の本流にあっていわゆる“味”のある萩茶碗の若き主という私の思いこみは、見事に打ち砕かれました。失礼ながら、やんちゃ坊主のお遊びといった思いさえ頭の隅をよぎったのですが、見つめるうちに、素人の私にさえも突きさすように飛びこんで来る鋭いものに、この方はなまじいの人ではないと、たちまち不遜(ふそん)な思いは消え失せました。
 それからというもの、三輪龍作という人は私の心にかかり、年を経るほどに見上げるような意味で、遠い人になっていきました。
 宗教の世界で仏縁とか神縁とか申しますが、まさにご神縁としかいいようのないことから、会ったこともない私に、10年前の岡山天満屋での大個展に際し、一文ものするようにとのお声がかかりました。まずは作品にお目にかかるべく出かけた私の前に、立ちはだかるように迫って来たのは、「卑弥呼」と題された“いのち”の塊そのものの巨大な作品群でした。胸ぐらを掴まれてゆさぶられるような衝撃、しかもそれは、半ば畏怖(いふ)の思いもないまぜにしたごとき感動でした。しばらくの後、その思いは一層の畏敬の念に変わっていきました。どちらが宗教人なのかと自問するような、崇高なものをこの作り手の中に感じたのです。
 しばらくして、にこやかな笑みを満面に私の前に現れた三輪龍作氏は、実にさわやかで、初めてお目にかかったにもかかわらず、まるで学生時代を共にした学友のような感に浸らせてもらいました。なごやかなひとときの中に垣間見せる鋭さ、そして重厚さは、この方が実に一代で出来た人物でないことを改めて教えてくれました。三輪家十二代を継ぎ、名号休雪を名乗られたとの知らせをいただいたのは、それから7年後、平成15年のことでした。
 十二代休雪は、かつての毛利藩萩の人にふさわしく、金彩で、しかもはるか父祖の血を辿(たど)るがごとく「シルクロードわん」という名のもとに、鮮やかにその第一歩を踏み出されました。まさに天衣無縫、いつに変わらぬ天馬空を行くがごとき作風に、改めて目を見張りました。しかし、このような雄大深奥な作品も、ご自身を厳しく追い込み、絞りに絞りこんで、そこから弾き出されるような力を得て初めて生まれでるものではないかと拝察しました。
 三輪家に深く根差したまさに“深根”の上に、十二代のつけるさらなる花はどのようなものか、そして結ぶ実はいかなるものになるのか。氏への期待はいよいよ強いものになっていきました。それは、かつて氏自身の言葉として耳にしたものですが、「伝統が真に生きるためには“現代”との激しいばかりの対決を避けては成らない」との一言が、私の中で渦まき続けているからです。
 十二代三輪休雪、龍作先生のますますのご健勝といよいよのご進展を、心から祈り上げることです。