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道ごころ 平成22年12月号掲載
湯川スミ先生 生誕100年寿ぎの会
 湯川スミ女史は、日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士夫人であり、博士の目指された、“世界平和実現のためにはこの道しかなし”との確信のもとに、世界連邦実現に向けてその後半生を捧(ささ)げられた方です。
 先年96歳の長寿を全うして昇天された女史を偲(しの)んで、特に岡山とのご縁が深かったことから、去る10月29日、岡山市内のホテルを会場に「湯川スミ先生 生誕100年寿ぎの会」が催されました。教主様は、世界連邦運動協会副会長で前綾部市長の四方八洲男氏、この運動の岡山県婦人の会理事長の井木和子女史とのてい談会に臨まれました。今号はその時の教主様のご発言の主だったところを紹介します。(編集部)


 私の母は湯川スミ先生の母校、大阪府立大手前高等女学校の一年後輩で、テニスに打ち込んでいた母と違って色白のお嬢様であったスミ先生に、母をはじめ後輩たちはあこがれの思いを持っていたようです。この“湯川先輩”が、京大出の新進気鋭の学者小川秀樹先生を養子に迎えて結婚されたとき、後輩たちはさすが! と歓声を上げたようです。
 母はあるとき耳にした泥脚佩雲(でいきゃくはいうん)という言葉でもって、スミ先生は妻、母、一家の主婦として足が地に着くどころか泥田の中に両足を突っ込んだような日々を重ねながら、世界平和という大きな星を目指すいわば腰に雲を帯びる生活をされていて「本当に素晴らしい方」とよく口にしていました。
 私は、四方市長と同じ京大に学んだ者ですが、いつも通る道筋に京大基礎物理学研究所 通称湯川記念館があり、何度か湯川秀樹先生が出入りされる御姿を拝見したことがあります。その度に一陣の清風が吹いたような清(すが)しさがありました。ノーベル賞を受けるような人はどんな御方なのか、その頃から強い関心がありました。
 昭和44年、中央公論社発行の雑誌で司馬遼太郎氏とのご対談を読んで、湯川先生の人となりを垣間(かいま)見るとともに、先生の世界連邦運動の土壌を感じたことでした。その対談は「日本人の原型を探る」というテーマで、先生は日本人の顔型の丸顔と面長の移り変わりや血液型に見る地域性などを語りながら、かつてご覧になった縄文時代の火焔(かえん)土器に驚嘆したことを述べられていました。司馬氏の「湯川先生は弘法大師がお好き……」に答えられるように、「弘法大師は仏教のバラモン的(古代インドの仏教以前の宗教)というかインド的なものを、中国経由でないものを持ってこようとした。高野山の弘法大師の亡くなった奥の院までの道中には、武田信玄の墓、続いて上杉謙信の墓があり、朝鮮の役(えき)のとき島津義弘が、戦死した日本と朝鮮の兵士もまつる碑をつくっている……。弘法大師とか俵屋宗達とか、ああいうバイタリティのある者が日本からたまには出ないとアカンという感じがするね。どうしても小味(こあじ)におさまりやすいのが欠点……」と続くのです。
 私の個人的な見解ですが、日本は北や南、西から多様な人種の人々が移り住んで今日に至った、いわば“合衆国”であると言われたのではないかと思います。酒や醤油(しょうゆ)など醸造の歴史深い日本は、唐の文明文化が入るや、しばらく蓋(ふた)をして醸(かも)すようにして生まれたのが平安時代であり、戦国時代末期に入ってきたヨーロッパ文明文化は鎖国という蓋をした中で、元禄、化政文化など独自の世界を展開してきました。
 「真のドイツ人が真の世界人」と言ったのはニーチェですが、湯川先生は日本人の特質を御自らの内にしっかりと明らかにした上で世界連邦運動につとめられていたと拝察します。京都の下鴨にお住まいであった先生ご夫妻は、よく下鴨神社にお参りになっていたと伺っています。スミ先生は、ご主人の湯川先生を想(おも)う強いお心をそのまま世界連邦運動への献身につながれたと確信します。
 世界連邦実現にひとつの期待を持たせてくれるのは、ヨーロッパ連合、すなわちEUではないでしょうか。経済的なつながりだけだという人もいますが、この元となったと言えるものに「パン・ヨーロッパ」運動があります。これは明治時代に、当時のオーストリア・ハンガリー帝国公使として来日していたハインリッヒ・クーデンホーフ伯が日本人の青山光子という方と結婚して生まれたリヒアルト、後のクーデンホーフ・カレルギー伯が押し進めたものです。第一次世界大戦で破壊し尽くされたヨーロッパに、戦争の無い時代を来(きた)そうとした壮大な運動でした。後にカレルギー伯は「光子の母としての教育の基本精神は、日本的精神と伝統的なヨーロッパ精神の最良のものと全く同じだった」と述べていますが、「パン・ヨーロッパの母」と称(たた)えられた光子女史の生き方が伺われます。私は、このクーデンホーフ光子女史と、湯川スミ先生に相通ずるものを感じています。
 今はチェコとスロバキアの二つの国に分離独立していますが、かつてのチェコスロバキアはナチスドイツに踏みにじられて人口が激減するほどの壊滅状態にありました。ナチス崩壊後、今度はこの地にいたドイツ人の数え切れないほど数多くが虐殺されるという悲劇も起こっています。ドイツはナチスのため加害者と見なされがちですが、大変な被害者でもあるのです。戦争の恐ろしさ、むごさです。ナチスドイツがいなくなったと思うとソ連共産軍の圧政下のチェコスロバキアになるのですが、ビロード革命と呼ばれるいわば無血革命でもって独立を得たこの国は、ハヴェルという劇作家であり哲学者のような深い思索の大統領のもとに、チェコとスロバキアに平和裏に分離独立を果たすわけです。今日ドイツはもとよりこのチェコもスロバキアも同じEUのメンバーであることを知るとき、世界連邦への道が見えてくると思います。
 そのために私たちが日常生活で何をなすべきかということですが、その答えのひとつは第二次大戦後のこのチェコスロバキアにあると思うのです。国を再興するために、男女の区別なくまず働きに働きました。その中で女性が出産すると、乳幼児にとって母親に代わる人、いわば母親のピンチヒッターはいないということで、国がその母親の得ていた収入の多くを負担して支え、国家再興のためには、母親の全身でもって育てた人間によって初めて成るという信念を貫いたのです。
 この事実は、今日のわが国には極めて厳しい問題を突き付けていると思います。皆様どうでしょうか。今の日本には女性は多くいらっしゃいますが、“おふくろ”が少なくなってはいないでしょうか。きょうお集いの方々は大半が女性です。どうか、後輩の若い女性方にここのところをぜひとも訴えていただきたく存じます。